商品説明? |
紙本肉筆1枚 作品寸法:24.0cm x 14.2cm 極札付 商品状態:実際の品を画像にてお確かめ下さい。
足利義政(あしかが-よしまさ) 没年:延徳2.1.7(1490.1.27) 生年:永享8.1.2(1436.1.20) 室町幕府第8代?将軍。父は義教で義勝の同母弟,母は日野重子。幼名三春丸。嘉吉3(1443)年7月兄の急死により,わずか8歳の幼少で細川持賢,畠山持国,山名持豊ら宿老に擁立されて家督を継ぐ。文安3(1446)年末義成と名乗り従五位上に叙任,2年後左馬頭,翌年元?服し将軍に任官,参議・左中将を兼ねる。享徳2(1453)年6月義政と改名。寛正1(1460)年8月左大臣,同5年准后宣下を受く。執政当初は父義教の大名抑圧策の反動で畠山,斯波ら有力守護家に家督紛争が頻発し,関東も上杉氏と公方の反目で戦乱状態となり,幕府の統制は全く緩んでいた。政務の主導権は生母重子,乳母今参局らに握られ,康正1(1455)年に日野富子と結婚したのちは富子の兄勝光や,蔭涼軒(季瓊)真蘂,政所執事伊勢貞親らが幕政に容喙,義政は政務に意欲を失って社寺巡礼や別荘の造営に憂き身をやつす始末であった。 寛正2(1461)年には大飢饉の最中に梅津山荘の建築を行い,後花園天皇から詩をもって諷諫されている。同5年に弟義視を継嗣としたが,翌年富子が義尚を生むと富子は山名宗全と結んで義視排斥に動き,これが応仁の大乱の原因となった。義政の政治逃避と前後して富子が政治力を持ち,大乱中は勝光,富子の兄妹が幕政を壟断した。文明?5(1473)年末には嫡子義尚に将軍を譲るが,実権は理財の才に優れた妻富子が握り,夫婦の仲も冷え切った。同15年有名な東山山荘を造営して隠遁,以後東山殿と称された。義尚が延徳1(1489)年近江陣中に没すると政務に復帰したが,幕政を立て直せぬまま翌年病死。父に似ず無気力な性格で,大乱の張本人として後世史家の指弾厳しいが,芸術面で卓抜した指導力と鑑識眼を発揮し,猿楽師音阿弥,河原者善阿弥,画家小栗宗湛,同朋衆相阿弥など優れた芸術家を育て,世に東山文化と総称される。また「同仁斎」扁額の命名で知られるように平等博愛思想を標榜し,被差別民の登用も行った。芳賀幸四郎『東山文化』,河合正治『足利義政』,永島福太郎『応仁の乱』 出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版 |