全体 36.5cm×56.5cm
箱、外箱、表具に痛みが見られます。
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頼山陽(1780~1832)
江戸?後期の漢詩人、史家。
名を襄(のぼる)、字を子成、号を山陽・三十六峰外史、通称を久太郎という。
広島藩儒頼春水を父、大坂の町医者飯岡義斎の娘静子を母に、
その長男として安永9年12月27日大坂・江戸?堀に生まれる。
幼時より神経症に悩まされ、治療を兼ねて、
18歳のとき叔父杏坪に伴われて江戸?に遊学したが、翌1798年帰郷した。
21歳、突如脱藩出奔したが、探し出され、24歳まで自宅の一室に監禁された。
この間に『日本外史』の草稿執筆が始まったという。
1803年(享和3)廃嫡のうえ、幽閉を許された。
1809年(文化6)30歳、父の友人菅茶山の廉塾の塾頭になったが満足せず、
1811年、京都に出て塾を開いた。
父春水の没後、1818年(文政1)には西遊の旅にたち、約1年間九州各地を遊歴して見聞を広めた。
「雲か山か呉か越か 水天髣髴青一髪」という詩句で有名な
『天草洋(あまくさなだ)に泊す』という詩は、この旅中の絶唱である。
このころから山陽の名も高まり、
小石元?瑞、篠崎小竹、浦上春琴などの親友や多くの門人に囲まれ、
京都の文人界の中心人物となっていった。
日本の武家の歴史を記した『日本外史』は、1826年(文政9)に成り、
死後出版され幕末の志士たちに読まれて山陽の名を有名にした。
ほかに『日本政記』(1832)、『山陽詩鈔(ししょう)』(1833)、
『日本楽府(がふ)』(1828)、『山陽遺稿』(1841)などの著作がある。
天保3年9月23日、肺結核により53歳で没した。
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